後楽園競輪
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[[【万舟】ボート一点予想/2026年/09月収支]] #ref(s3.jpg) #br *後楽園競輪 [#j0571911] #ref(s.jpg) #br #ref(s2.jpg) #br 後楽園競輪場 かつて東京都にあった競輪場。現在の東京ドームの場所に建っていた。 後楽園競輪場(こうらくえんけいりんじょう)は、東京都文京区にかつて存在した競輪場である。以後はプールやローラースケート場として運営され、1988年から日本初の屋根付き野球場の東京ドームとなっている。 後楽園競輪場 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)(現・地図・空中写真閲覧サービス)の空中写真を基に作成 後楽園競輪場の航空写真。1984年撮影(写真中央左上)。右隣の施設は、後楽園球場。競輪場は現在の東京ドームがあるところになる。左隣の緑地は小石川後楽園。 基本情報 所在地 東京都文京区後楽1-3 座標 北緯35度42分21秒 東経139度45分7秒 開設 1949年(昭和24年)11月2日 閉場 1972年(昭和47年)10月29日(休止扱い) 走路 400m 施行者 東京都 所有者 株式会社後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム) 特別競輪 競技名 日本選手権競輪 開催月 11月 概要 この場所は江戸時代には水戸徳川家の屋敷の中屋敷(後に上屋敷)の中だった。屋敷の中に、初代藩主の徳川頼房が庭園を造り、二代藩主の光圀が完成させている。 明治維新後は旧帝国陸軍に接収され、1870年(明治3年)から1935年(昭和12年)までは東京砲兵工廠が置かれていた。しかし東京砲兵工廠は、1923年(大正12年)の関東大震災(大正関東地震)で甚大な被害を受け完全な復旧は不可能と認定され、1931年(昭和6年)から逐次福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)へ移転が実施され、小倉兵器製造所が開設された。1933年(昭和8年)10月、小倉兵器製造所は小倉工廠となり、兵器製造所に加え砲具製造所・砲弾製造所を増設。1935年(昭和10年)10月、東京工廠は小倉工廠へ移転を完了した。 →詳細は「東京砲兵工廠 § 概要」、および「小倉陸軍造兵廠 § 略史」を参照 工廠跡地は翌1936年に設立された「株式会社後楽園スタヂアム」に売却され、翌1937年(昭和12年)9月、職業野球専用の新球場「後楽園球場」が建造された。 競輪場時代 戦後、1948年(昭和23年)に自転車競技法が公布され、自治大臣が指定する市町村は「地方財政の健全化」のため、公に競輪が開催できるようになったことで、偶然にも砲兵工廠の移転先だった小倉市三萩野に新設された小倉競輪場(現・北九州メディアドーム)を皮切りに公営ギャンブルとしての競輪が始まった。東京都も戦後の都の復興の一助にしようということで1949年(昭和24年)に東京都が主催し、後楽園球場に隣接する場所に都内初の競輪場を開設。同年11月からレースを開催し、一般の競輪レース(9車立て)より3人多い12車立てで開催するユニークな経営方針を取り入れたことで人気を集めた。 1950年(昭和25年)に鳴尾事件が発生、全国的に競輪の開催ができなくなると、同年12月4日から再開されるまでの期間、スタンドの一部がゴルフ練習場として開放された。ボールは2ダースで50円の料金設定で夜間照明も行われた。 1958年(昭和33年)1月の開催では、一開催の入場者数が約27万人を記録するなど、全国一の売り上げを誇った。また、コースの内側にはグラウンドが設置されており、国立競技場(現・MUFGスタジアム)が完成する前にオリンピック予選を始めとするサッカー日本代表(現・SAMURAI BLUE)の試合が開催されたことや、後楽園ジムナジアム(現・後楽園ホール)がオープンする前はボクシングやプロレスの興行が行われたこともある。東京国際見本市会場(現・東京ビッグサイト)が開業する前の1958年(昭和33年)には、全日本自動車ショウ(東京モーターショーを経て現・JAPAN MOBILITY SHOW)が開かれたこともあった。 競輪場廃止・プール時代 東京都営のギャンブルを全面的に廃止する方針を掲げた美濃部亮吉が1967年(昭和42年)の公選第6回東京都知事選挙で初当選。続く1971年(昭和46年)の選挙でも再選され、都営ギャンブルは終息へと動き出した。 京王閣競輪場等、東京都以外の自治体も開催権を持っていた公営ギャンブルは東京都が主催する分を穴埋めする形で開催を継続したが、後楽園競輪及び大井オート(群馬県へ移転し現・伊勢崎オート)は東京都の単独開催であったため廃止となり、後楽園競輪場は1972年(昭和47年)10月26日に開催されたレースを最後に競輪の開催が取り止められた。 競輪場としての使命を終えた同施設は、後楽園球場を経営する後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)によって「後楽園ジャンボプール」として改装され、場内にはスタンドを利用したゴルフ練習場も併設された。 1986年(昭和61年)にプールは廃止され、日本初の屋根付き野球場である東京ドームの建設工事が始まる。 東京ドーム 東京ドームは1988年(昭和63年)に開場[。後楽園球場は解体される。 なお、後楽園競輪は廃止されておらず、あくまで『休止』扱いであるため、東京ドームには将来的な競輪開催を見越してフィールド内に組み立て式トラック(400メートルバンク)が設営できるよう予め設計されており、東京ドーム社も、競輪運営のノウハウを持ち続けるため、松戸競輪場を運営する松戸公産を傘下に収めた。 2003年(平成15年)、第15代東京都知事石原慎太郎(当時)が後楽園競輪の開催に意欲を見せる発言を行うなど、東京ドームで競輪のレースを復活させようとする動きもあった。しかし、競輪の復活に対する文京区や、周辺住民の反対もあり実現の見通しは立っていない。 かつては年に一度、東京ドームで競輪・自転車競技のイベントが行われていたことがあり、この時は実際にトラックが設営された。このことから2016年東京オリンピック構想において、自転車競技のトラックレース部門にてこのバンクの使用が検討されたが、開催時期などの関係から大井ふ頭中央海浜公園内に仮設の自転車競技場を設営する計画となった(結果は招致失敗)。なお、現在のトラックレースは1周250メートルの板張りバンクで行われているため、それに対応していない東京ドームの格納バンクでは特別な許可を得ない限りトラックレースが開催できないことから、2020年東京オリンピックにおいては招致段階から東京ドームは競技会場より外されており、自転車競技のトラックレース部門は静岡県伊豆市(旧・大仁町)の伊豆ベロドロームにて実施された。 エピソード 2000年にSPEEDチャンネルで放送された『名選手列伝・吉田実』によると、1960年11月3日の第15回全国争覇競輪最終日(決勝戦)には、推定7 - 8万人の入場者があり、スタンド内に押し込まれて身動きが取れなくなった約1500名のファンが、途中から金網を上ってバンク内へと入り込み、決勝戦は、観客をバンク内に入れたまま行うという異常事態の中で行われた。この事例により警察から指導が入ったこともあり、主催者だった東京都は、翌1961年の第16回全国争覇競輪の開催が既に決定していたにもかかわらず、警備が困難という理由から開催を返上。加えて代替地に名乗りを挙げる施行者も現れなかったことから、同大会は1963年3月に一宮競輪場で行われるまで開催できなかった。 後楽園競輪の廃止に当たっては、選手会、競輪専門紙販売員、売店従業員、両替係のほか後楽園競輪予想組合(162人)も補償の申し入れを行った。しかし、予想組合の理事長の1人は現役の暴力団組長であり、交渉は難航した。
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[[【万舟】ボート一点予想/2026年/09月収支]] #ref(s3.jpg) #br *後楽園競輪 [#j0571911] #ref(s.jpg) #br #ref(s2.jpg) #br 後楽園競輪場 かつて東京都にあった競輪場。現在の東京ドームの場所に建っていた。 後楽園競輪場(こうらくえんけいりんじょう)は、東京都文京区にかつて存在した競輪場である。以後はプールやローラースケート場として運営され、1988年から日本初の屋根付き野球場の東京ドームとなっている。 後楽園競輪場 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)(現・地図・空中写真閲覧サービス)の空中写真を基に作成 後楽園競輪場の航空写真。1984年撮影(写真中央左上)。右隣の施設は、後楽園球場。競輪場は現在の東京ドームがあるところになる。左隣の緑地は小石川後楽園。 基本情報 所在地 東京都文京区後楽1-3 座標 北緯35度42分21秒 東経139度45分7秒 開設 1949年(昭和24年)11月2日 閉場 1972年(昭和47年)10月29日(休止扱い) 走路 400m 施行者 東京都 所有者 株式会社後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム) 特別競輪 競技名 日本選手権競輪 開催月 11月 概要 この場所は江戸時代には水戸徳川家の屋敷の中屋敷(後に上屋敷)の中だった。屋敷の中に、初代藩主の徳川頼房が庭園を造り、二代藩主の光圀が完成させている。 明治維新後は旧帝国陸軍に接収され、1870年(明治3年)から1935年(昭和12年)までは東京砲兵工廠が置かれていた。しかし東京砲兵工廠は、1923年(大正12年)の関東大震災(大正関東地震)で甚大な被害を受け完全な復旧は不可能と認定され、1931年(昭和6年)から逐次福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)へ移転が実施され、小倉兵器製造所が開設された。1933年(昭和8年)10月、小倉兵器製造所は小倉工廠となり、兵器製造所に加え砲具製造所・砲弾製造所を増設。1935年(昭和10年)10月、東京工廠は小倉工廠へ移転を完了した。 →詳細は「東京砲兵工廠 § 概要」、および「小倉陸軍造兵廠 § 略史」を参照 工廠跡地は翌1936年に設立された「株式会社後楽園スタヂアム」に売却され、翌1937年(昭和12年)9月、職業野球専用の新球場「後楽園球場」が建造された。 競輪場時代 戦後、1948年(昭和23年)に自転車競技法が公布され、自治大臣が指定する市町村は「地方財政の健全化」のため、公に競輪が開催できるようになったことで、偶然にも砲兵工廠の移転先だった小倉市三萩野に新設された小倉競輪場(現・北九州メディアドーム)を皮切りに公営ギャンブルとしての競輪が始まった。東京都も戦後の都の復興の一助にしようということで1949年(昭和24年)に東京都が主催し、後楽園球場に隣接する場所に都内初の競輪場を開設。同年11月からレースを開催し、一般の競輪レース(9車立て)より3人多い12車立てで開催するユニークな経営方針を取り入れたことで人気を集めた。 1950年(昭和25年)に鳴尾事件が発生、全国的に競輪の開催ができなくなると、同年12月4日から再開されるまでの期間、スタンドの一部がゴルフ練習場として開放された。ボールは2ダースで50円の料金設定で夜間照明も行われた。 1958年(昭和33年)1月の開催では、一開催の入場者数が約27万人を記録するなど、全国一の売り上げを誇った。また、コースの内側にはグラウンドが設置されており、国立競技場(現・MUFGスタジアム)が完成する前にオリンピック予選を始めとするサッカー日本代表(現・SAMURAI BLUE)の試合が開催されたことや、後楽園ジムナジアム(現・後楽園ホール)がオープンする前はボクシングやプロレスの興行が行われたこともある。東京国際見本市会場(現・東京ビッグサイト)が開業する前の1958年(昭和33年)には、全日本自動車ショウ(東京モーターショーを経て現・JAPAN MOBILITY SHOW)が開かれたこともあった。 競輪場廃止・プール時代 東京都営のギャンブルを全面的に廃止する方針を掲げた美濃部亮吉が1967年(昭和42年)の公選第6回東京都知事選挙で初当選。続く1971年(昭和46年)の選挙でも再選され、都営ギャンブルは終息へと動き出した。 京王閣競輪場等、東京都以外の自治体も開催権を持っていた公営ギャンブルは東京都が主催する分を穴埋めする形で開催を継続したが、後楽園競輪及び大井オート(群馬県へ移転し現・伊勢崎オート)は東京都の単独開催であったため廃止となり、後楽園競輪場は1972年(昭和47年)10月26日に開催されたレースを最後に競輪の開催が取り止められた。 競輪場としての使命を終えた同施設は、後楽園球場を経営する後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)によって「後楽園ジャンボプール」として改装され、場内にはスタンドを利用したゴルフ練習場も併設された。 1986年(昭和61年)にプールは廃止され、日本初の屋根付き野球場である東京ドームの建設工事が始まる。 東京ドーム 東京ドームは1988年(昭和63年)に開場[。後楽園球場は解体される。 なお、後楽園競輪は廃止されておらず、あくまで『休止』扱いであるため、東京ドームには将来的な競輪開催を見越してフィールド内に組み立て式トラック(400メートルバンク)が設営できるよう予め設計されており、東京ドーム社も、競輪運営のノウハウを持ち続けるため、松戸競輪場を運営する松戸公産を傘下に収めた。 2003年(平成15年)、第15代東京都知事石原慎太郎(当時)が後楽園競輪の開催に意欲を見せる発言を行うなど、東京ドームで競輪のレースを復活させようとする動きもあった。しかし、競輪の復活に対する文京区や、周辺住民の反対もあり実現の見通しは立っていない。 かつては年に一度、東京ドームで競輪・自転車競技のイベントが行われていたことがあり、この時は実際にトラックが設営された。このことから2016年東京オリンピック構想において、自転車競技のトラックレース部門にてこのバンクの使用が検討されたが、開催時期などの関係から大井ふ頭中央海浜公園内に仮設の自転車競技場を設営する計画となった(結果は招致失敗)。なお、現在のトラックレースは1周250メートルの板張りバンクで行われているため、それに対応していない東京ドームの格納バンクでは特別な許可を得ない限りトラックレースが開催できないことから、2020年東京オリンピックにおいては招致段階から東京ドームは競技会場より外されており、自転車競技のトラックレース部門は静岡県伊豆市(旧・大仁町)の伊豆ベロドロームにて実施された。 エピソード 2000年にSPEEDチャンネルで放送された『名選手列伝・吉田実』によると、1960年11月3日の第15回全国争覇競輪最終日(決勝戦)には、推定7 - 8万人の入場者があり、スタンド内に押し込まれて身動きが取れなくなった約1500名のファンが、途中から金網を上ってバンク内へと入り込み、決勝戦は、観客をバンク内に入れたまま行うという異常事態の中で行われた。この事例により警察から指導が入ったこともあり、主催者だった東京都は、翌1961年の第16回全国争覇競輪の開催が既に決定していたにもかかわらず、警備が困難という理由から開催を返上。加えて代替地に名乗りを挙げる施行者も現れなかったことから、同大会は1963年3月に一宮競輪場で行われるまで開催できなかった。 後楽園競輪の廃止に当たっては、選手会、競輪専門紙販売員、売店従業員、両替係のほか後楽園競輪予想組合(162人)も補償の申し入れを行った。しかし、予想組合の理事長の1人は現役の暴力団組長であり、交渉は難航した。
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